草木すら眠る深夜、王都の大聖堂は静謐に満ちていた。
蠟燭の灯りすらなく、窓から差し込む月光が癒しの御子の聖像を照らしている。
呼吸の音すらはばかられるような静寂の中、私、ロメリア・フォン・グラハムは、聖像の前で膝をつき、一心不乱に祈りを捧げていた。
願うのはただ一つ。ライオネル王国アンリ王子の、旅路の安全であった。
アンリ王子は私の婚約者だ。私達が赤子の頃に決められた約束だが、それでも私はアンリ王子のことを愛していた。
彼は剣と魔法の才に優れ、快活で、利発で、何より高い志と情熱を秘めていた。私はアンリ王子に惹かれ、この人の側で支えたいと思うようになった。しかし私の願いは、突如襲来した魔族達によって打ち破られた。
魔族。蜥蜴の如き風貌の生物達は、魔王ゼルギスの命により、私達が住むアクシス大陸に侵攻を開始した。
これまで見たこともない敵の姿に、人類諸国家の対応は後手に回った。幾つもの国が滅ぼされ、多くの人々が奴隷になっているという。このままではライオネル王国が、人類が危ういと憂いたアンリ王子は、単身で魔王ゼルギスを討つ覚悟を決め、今日の夜明けに出発するという。
たった一人で魔王を倒す。あまりにも無謀である。できるわけがない。
王子から決断を打ち明けられた私は、その場で彼を止めるべきであった。しかし決意と情熱を秘めた瞳を見たとき、行かないでくださいとは言えなかった。
止めることができないのであれば、一緒について行きたかった。王子の旅に同行するために、旅の荷物をまとめたりもした。しかし戦う力のない私がついて行っても、足手まといにしかならないと気づいた。できることといえば、こうして神に祈るだけだった。
大聖堂で祈りながら、私は歯を噛みしめた。これまで王子を支える一助になればと、勉強に励んできた。しかし書物で得た知識など、魔王討伐の旅には何の役にも立たない。無力な自分が恨めしかった。
何か、せめて何か王子の助けになる力が私にあれば、共に旅をすることができるのに……。
悲しみと、苦しみと、怒りと、切望を込めて祈ったその時。突如として荘厳な声が大聖堂に響きわたった。
『ロメリアよ』『お前に力を与えよう』
天から降り注ぐ声に、私は驚き立ち上がった。幻聴かと疑ったが、声はさらに語り掛けてくる。
『お前に与える力は』『恩寵』『味方には幸運と好調を』『敵には不運と不調を与える』『この力で王子を助け』『魔王を討つのだ』
荘厳な声が、私に使命を告げる。そして窓もない大聖堂の天井から、まばゆい光が降り注いだ。
私は驚きに言葉もなく、ただ立ち尽くすしかなかった。
光は徐々に収まり、消え去っていく。天から響き渡った声はもはや語り掛けることはなく、静寂が大聖堂を支配する。まるで何事もなかったかのような静けさだった。
私は自らの右手を見て、握りしめた。過ぎ去ってしまえば、夢か幻だったような気がしてくる。しかし幻覚ではない。私は確かに、天から奇跡の力を授かったのだ。
手を握り締める私は、ハッと大事なことを思い出した。王子は今日の夜明けに、国を発つと話していた。このままでは置いていかれてしまう。
私は大聖堂を抜け出し、自分の屋敷へ向かった。準備はすでに整っている。王子の旅について行こうとまとめた荷物は、そのまま残っているからだ。
屋敷に戻ると、自室に隠しておいた背嚢を引っ張り出す。
私の体より大きな背嚢には、衣類に食料と水、薬に地図、そして路銀を詰め込んである。あとは動きやすい、丈夫な服に着替えるだけでよかった。
私は町娘が着るような地味な服に着替え、大きな背嚢を背負った。そして屋敷から裏庭に出ると、空はうっすらと白み始めていた。
夜明けは近い。アンリ王子はすでに王宮を抜け出し、王都から旅立とうとしているはずだ。今から王都の門に向かえば、出立するアンリ王子に追いつけるはず。
私は急いで裏門から出ようとした。すると裏庭の井戸に人影が見える。
屋敷で働いているカイロ婆やだった。夜も明けきらぬというのに、すでに朝の仕事を始めているのだ。
カイロ婆やは、私が生まれた時からずっと側にいてくれた人だ。婆やは私を実の子供のように愛し、私も婆やを母のように愛していた。
私が旅立ったことを知れば、きっと婆やは泣くだろう。その光景を思い浮かべると、私の胸に痛みが走る。だが歩みを止めるわけにはいかなかった。
ごめんねと心の中で謝ると、私は大きな荷物を背負い、息を切らして走った。
一歩進むごとに空は明るくなり、王都の門を抜けた頃には朝日が完全に顔を出した。緑の丘が陽の光に照らされる。その丘を、一人の男性が振り返ることなく進んでいた。アンリ王子だ。
私は置いていかれまいと走った。とにかく全力で坂道を駆け上る。
追いついた私に気づき、アンリ王子が振り返る。
「ロ、ロメ⁉ ど、どうしてここに? その格好はもしや!」
私の愛称を呼ぶアンリ王子は、丸くした目で私の服や背嚢を見る。息が切れた私は返事ができず、代わりに笑顔で頷いた。
「駄目だ! この旅は危険だ! 今すぐ戻るんだ!」
アンリ王子は王都を指差す。確かに王都に居れば安全だ。何より伯爵令嬢として、何不自由ない生活ができるだろう。一方で、アンリ王子との旅は辛く厳しい。飢えや寒さに苦しめられるだろうし、何より死が待っているかもしれない。でもだから、だからこそなのだ。
まだ呼吸が整わない私は、無言のまま首を横に振った。そして絶対についていくという決意を込めて、アンリ王子を見返した。
「何故だ? どうして?」
アンリ王子はわからないと私を見返す。だがそれは今更だった。
「そんなの……決まって……るじゃ、ない、ですか……」
ようやく呼吸が整い始めた私は、アンリ王子に向かってほほ笑んだ。
「貴方を愛しているからです。貴方が行くところに私も行きます。それでいけませんか?」
私の言葉にアンリ王子はあっけにとられるも、最後は満足そうに頷いた。
「よし、わかった。一緒に行こう。だが先は険しいぞ、遅れるなよ」
アンリ王子は明るい声を出して進んでいく。
「待ってください、まだ息が……」
私は王子についていこうとした。しかし後ろ髪を引かれ、立ち止まり振り返る。そこには慣れ親しんだ王都の街並みが広がっていた。
もしかしたらこの光景を見ることは、もうないかもしれない。だがそれでも……。
私は前を向き、一歩を踏み出した。
どれほど困難が待ち受けようとも、愛した人といられるのだから、それだけで十分だった。